めだかとタナゴを飼っています。

お魚飼育やお庭。 家庭菜園とたまに山歩き。

羊太夫

上野國多胡郡山部郷の人々


http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010159
天平勝宝5年(753)の東大寺の仁王会で使用した屏風の袋。

正倉院 「揩布屏風袋 第3号(すりぬののびょうぶぶくろ)

左側襠裏裂部分 D0000002523
の画像に


上野國多胡郡山部郷戸主秦人部
とあります。




山部郷は現在の山名町がその地名と同じ場所と考えられていると言われます。

以下 上野三碑のサイトに経緯が説明されていて
興味深くみていました。




https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/03.html

山部[やまべ]郷

もと片岡郡。『続日本紀』に「山等」とあり、桓武天皇の諱[いみな]*である「山部」を避けて
「山字[やまな]」と改められたことから、高崎市山名町[やまなまち]地域が山部郷と推定されています。

*用語
諱(いみな)-生前の実名。天皇の名を口にすることや、文字に書き記すことは、はばかられました。


img_02 こうずけさんぴ








いきなり本質的な疑問の糸口が来ました




秦人部
ですからね!


山部[やまべ]郷に秦氏の人々が住んで居たという証拠の品と言って
良いと言うことですね
凄いね正倉院





















羊太夫と左大臣


多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる
上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。


伝承では多胡郡の郡司だったとされる。
 多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。

名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)

上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%BE%8A%E5%A4%AA%E5%A4%AB


wikiには上記のようにある。

下画像 歴博 「碑の小径」 解説パネル

Photo by CLM 多胡碑 P2170477



以下wiki多胡碑より


多胡碑 拓本





弁官符上野國片罡郡緑野郡甘

良郡并三郡内三百戸郡成給羊

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

宣左中弁正五位下多治比真人

太政官二品穂積親王左太臣正二

位石上尊右太臣正二位藤原尊


現代語訳

弁官局からの命令である。
上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、
羊に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡とせよ。
これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。
左中弁・正五位下多治比真人。

知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%A2%91





wikiの羊太夫を読むと
最初の「天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる」
ここで私はつまづいてしまう。

碑に書かれた「和銅4年(711年)」を信用すれば
707年に崩御した文武天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

の次代元明天皇
の在位707年8月18日 - 715年10月3日
の事としか思えない。

元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月7日))


天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。

藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87


「羊」の解釈は人物以外にも色々あるが定説通り人物という解釈で
話を進めます。


碑文の登場人物は、
左中弁・正五位下多治比真人


知太政官事・二品穂積親王
左大臣・正二位石上麻呂
右大臣・正二位藤原不比等


まず左大臣石上麻呂に注目してみたい。

左大臣 多治比 石上麻呂 長屋王


上はwikiの歴代の左大臣のから抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E5%A4%A7%E8%87%A3


石上麻呂は708年から717年に左大臣の地位であったが、
その先任と後任にも目をやると
先任者の多治比嶋は多胡碑の左中弁・正五位下多治比真人。
の兄弟
であることがわかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E5%B6%8B

多治比 嶋(たじひ の しま)は、飛鳥時代の公卿。名は志麻・志摩とも。宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる。摂津大夫・多治比古王(丹比麻呂)の子。姓は公のち真人。官位は正二位・左大臣。

同母弟である多治比 三宅麻呂が多胡碑にある左中弁である。

多治比 三宅麻呂(たじひ の みやけまろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての貴族。摂津大夫・多治比古王の子。官位は正四位上・左大弁。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%BA%BB%E5%91%82


尚、多治比嶋はかぐや姫に求婚する貴族のひとりのモデルとされている。




 三宅麻呂は後に失脚し722年官位はく奪で流罪となるが、
多かれ少なかれその原因となる長屋王が石上麻呂の後任の左大臣
なっている。




wiki長屋王


長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。

皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B



左大臣の3人をさらっと見るだけで、これだけ時代が見えるのも面白いと思います。
そして、平城京遷都と東大寺大仏建立に繋がる
激動の時代を羊太夫と彼の支配下に置かれた多胡郡の人たちが
どう生きたのかも考えてみたいと思います。



今後、羊の人間像を様々な切り口で読み解く試みを続けてみたいと思います。

















上野三碑をいっぺんに


http://cozuly-le-matuma.dreamlog.jp/archives/16359110.html

碑の小径 多胡碑のつづきです。


Photo by CLM 多胡碑 上部亀裂 P2170497


上部正面から向かって右側の角からの画像で
大きな亀裂があります。

ここ抜け角に型をはずすの苦戦したあとと思えるのがあって
細かく分けて型取りした形跡が残っているような"バリ"っぽいのがみえて
なかなか興味深いです。
でも経年変化で固い部分が盛り上がってこういう石なのかな?とも
石の材質も気になります。


地元では多胡石とか天引石っていうらしいですが、
こういう石なのでしょうか?

牛伏砂岩 うしぶせさがん という花崗岩質の砂岩なんだそうです。











Photo by CLM 上野三碑 揃い踏み P2170499

上野三碑揃い踏み。
奥に見えているのが金井沢碑と山上碑です。





Photo by CLM 上野三碑 揃い踏み P2170483


金井沢碑

わたしは多胡碑以外は実物を観に行っていません。




Photo by CLM  山の上碑 P2170486







山上碑です。


「辛己歳集月三日記」とあるのですが
集月って何月?と思い検索すると概ね10月と読むらしい。
が、やっぱりわからないらしい。


集月 十月 音だけではそうとしか読めないですが。











上野三碑を並べて観る方法




2017年の年末に群馬県の上野三碑のうち多胡碑を観にいきました。

画像を探したのですが、その時のPCが今使っているのと別で
すぐに画像を探せなかったので
奥の手を使い。
上野三碑を並べて観る方法を


採用することにしました


Photo by CLM 歴博 P2170464

3月19日にリニューアルオープンした。

歴博にGO




「碑の小径 いしぶみのこみち」があります。

リニューアルオープン展示は後回しで、
真っ先に碑の小径へ







 



Photo by CLM 歴博 碑の小径 表 P2170493

日本中のメジャーな碑の精密なレプリカがあり。
上野三碑が並べて観れる夢の展示があります(^O^)/



※18以降は現存しませんので藤原鎌足碑は
めっちゃ観たいですがありません

v( ̄∇ ̄)v

墓碑

故人の姓名・経歴などを刻した標の一種。『喪葬令』に「凡(およ)そ墓には皆碑を立てよ、具官姓名之墓と記せ」とあり、三位(さんみ)以上の高官の墓に碑を立てることを定めている。古代における遺例は少ないが、藤原鎌足(かまたり)の墓碑の存在が『家伝(かでん)』にうかがわれ、元明(げんめい)天皇の墓碑と伝えられるものも現存する。

https://kotobank.jp/word/%E5%A2%93%E7%A2%91-631207

(*゚∀゚)っ






Photo by CLM 多胡碑 P2170480




多胡碑です




本物を観に行ってもこんなに近くでみれません。




ここはある意味現場よりもよくみれます。


穴場



Photo by CLM 本物より近くで 多胡碑 P2170479








つづく・・・
































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