2019年03月
次はどこの山に行ってみようか?と
しょっちゅう調べている。
花の百名山には目もくれず
冬季がメインなのであまり麗らかで風光明媚な山には縁がない。
最近気になる榛名山と赤城山ですが・・・
歴博の年代観変更
周辺に古墳の多い榛名山の噴火
どうなっているかというと・・・
今まであんまり気にしていなかったけど
最近気にしてるのでよーくみてしまいました。
歴博第一展示室の画像
wiki榛名山より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1
榛名山って榛名湖と榛名富士が
日月の構図になっているところがアイコンとして面白いですよね。
🌋 🌋 🌋 🌋 🌋
wikiの年代
マグマ噴出量は0.32 DREkm3。火山爆発指数:VEI4
マグマ噴出量は0.74 DREkm3。火山爆発指数:VEI5
🌋 🌋 🌋 🌋 🌋
上画像は歴博展示パネルですが、
6世紀に2度の二ツ岳噴火を明記しています。
wiki榛名山
有史以降の記録は残っていないが、渋川市の金井東裏遺跡(国道353号建設工事に伴う調査)では、6世紀の火砕流に巻き込まれた甲を着装した成人男性人骨1体と、乳児頭骨1点が発掘されており、人的被害が出ていたことが裏付けられている[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1#/media/File:%E9%87%91%E4%BA%95%E6%9D%B1%E8%A3%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E7%94%B2%E3%82%92%E7%9D%80%E3%81%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E4%BA%BA_(%E8%A4%87%E8%A3%BD).JPG
多分この甲を着装した男性の発掘でC14年代測定して、
得た年代を歴博のリニューアル展示に加えているのですね。
5世紀の噴火については年代測定の対象になる遺物が出ていないということでしょうか?
私はどっちかと言うと弥生以降より縄文に興味があるので
いままであんまり弥生以降って得意じゃなかったのですが、
綿貫観音山古墳は興味があります。
やはり榛名山と赤城山周辺が歴史的にも面白そうですね
多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる
上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。
伝承では多胡郡の郡司だったとされる。
多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。
名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)
上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%BE%8A%E5%A4%AA%E5%A4%AB
wikiには上記のようにある。
下画像 歴博 「碑の小径」 解説パネル
以下wiki多胡碑より
弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
現代語訳
弁官局からの命令である。
上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、
羊に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡とせよ。
これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。
左中弁・正五位下多治比真人。
知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%A2%91
wikiの羊太夫を読むと
最初の「天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる」
ここで私はつまづいてしまう。
碑に書かれた「和銅4年(711年)」を信用すれば
707年に崩御した文武天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
の次代元明天皇
の在位707年8月18日 - 715年10月3日
の事としか思えない。
元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月7日))
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
「羊」の解釈は人物以外にも色々あるが定説通り人物という解釈で
話を進めます。
碑文の登場人物は、
左中弁・正五位下多治比真人。
知太政官事・二品穂積親王、
左大臣・正二位石上麻呂、
右大臣・正二位藤原不比等。
上はwikiの歴代の左大臣のから抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E5%A4%A7%E8%87%A3
石上麻呂は708年から717年に左大臣の地位であったが、
その先任と後任にも目をやると
先任者の多治比嶋は多胡碑の左中弁・正五位下多治比真人。
の兄弟であることがわかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E5%B6%8B
多治比 嶋(たじひ の しま)は、飛鳥時代の公卿。名は志麻・志摩とも。宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる。摂津大夫・多治比古王(丹比麻呂)の子。姓は公のち真人。官位は正二位・左大臣。
同母弟である多治比 三宅麻呂が多胡碑にある左中弁である。
多治比 三宅麻呂(たじひ の みやけまろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての貴族。摂津大夫・多治比古王の子。官位は正四位上・左大弁。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%BA%BB%E5%91%82
尚、兄の多治比嶋はかぐや姫に求婚する貴族のひとりのモデルとされている。
三宅麻呂は後に失脚し722年官位はく奪で流罪となるが、
多かれ少なかれその原因となる長屋王が石上麻呂の後任の左大臣と
なっている。
wiki長屋王
長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ、天武天皇5年(676年)/天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B
左大臣の3人をさらっと見るだけで、これだけ時代が見えるのも面白いと思います。
そして、平城京遷都と東大寺大仏建立に繋がる
激動の時代を羊太夫と彼の支配下に置かれた多胡郡の人たちが
どう生きたのかも考えてみたいと思います。
今後、羊の人間像を様々な切り口で読み解く試みを続けてみたいと思います。
歴博のリニューアル展示で最古のイエネコがあった。
イエネコの先祖はリビアヤマネコなんだそうだ。
古代エジプトでもネコは重要視され長く輸出禁止とされた生き物なのだと以前聞いたことがある。
なぜなら🐈は古代エジプトではラーの娘であり神だからだろうと思う。
猫の姿をしたバステト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%88#/media/File:Bastet-E_2533-Egypte_louvre_058.jpg
猫は、古代エジプト人が初めて家畜化した動物と言われている。
エジプト先王朝時代の紀元前6000年頃、ヒエラコンポリスの貴族墓より猫の骨が発見されている。
また紀元前4000年紀後半には、家畜化されていたと考えられている[1]。
1:^ a b c 吉村作治 『古代エジプトを知る事典』、312頁。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%88
歴博の展示
長崎県壱岐の遺跡から出土して日本最古のイエネコと
考えられる動物の骨が出土したそうだ。
紀元前3世紀から2世紀という年代が表示されていた。
古代エジプトから日本に猫が渡ってくるまでに、
気の遠くなるような時間が掛かっているということだ。
一枚目の画像をもう一度みて貰いたいが、
気になったことがあった。
朝鮮半島の金海でほぼ同時代のものと
思われる猫の骨が出土しているそうだ。
韓国南部金海貝塚。
歴史妄想 伽耶
http://cozuly-le-matuma.dreamlog.jp/archives/16335675.html
金海のことはこの時も書いたが金官伽耶は
西暦42年に生まれた首露王が6つの卵から他5人の王子とともに孵って
六伽耶連合である
駕洛国(金官伽耶)
大加耶
星山加耶
阿羅加耶
小加耶
古寧加耶
を築く。
首露王のルーツを求めると、
古代中国の黄帝の末裔だと言われる。
歴博は長崎と金海から猫の骨がは ほぼ同時期 とするも
金海側の骨の年代を明らかにしていない。
ほぼ同時期 とか 韓国南部金海貝塚 とか
なんかちょっとぼかしているが、
「東三洞貝塚」とか遺跡名がはっきりしないのが
気にかかっている。
朝鮮半島では弁韓
日本では弥生時代
という解釈で良いのかな~?
というのは、別の切り口での考えが浮かんできたからだ。
高麗茶碗に「猫掻き手」と呼ばれる茶碗がある。
釜山にある金海空港はキメ空港であるが
(表示はGim-hae International Airport)
猫掻き手の「金海茶碗」はきんかいと読み発音する。
戦国の茶人は金海はきんかいと日本語で読んでいた。
この金海茶碗 何故「猫掻き手」なのか
長く不思議に思っていた。
紀元前から猫が居たという金海を想像すると、
知っている人にとっては
金海茶碗は猫を想起する言葉だったはず。
ちょっとその茶碗を観てみてください。
猫が引掻いたような模様
猫掻き手です
この画像の内部の文字は私が書き入れたものです。
古い本からの画像です。
高台の造りも猫の地を妄想すると、
心なしか「ネコ足」に見えてこないわけでもない。
この茶碗がなんで良いのか長らく謎だったのですが、
金海の猫を想うと、
この茶碗の意味がわかってくるのでありました。
因みに金海の猫掻き手は
日本からの注文品だと言われています。
歴博の猫展示かわゆす
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